Monday, October 4, 2021

リベラルの反対語は保守ではない。今求められる「もう一隻の船」とは|保守と立憲 世界によって私が変えられないために|中島岳志|cakes(ケイクス)

リベラルの反対語は保守ではない。今求められる「もう一隻の船」とは|保守と立憲 世界によって私が変えられないために|中島岳志|cakes(ケイクス)

リベラルの反対語は保守ではない。今求められる「もう一隻の船」とは

2018年7月20日、第196回国会の実質的な最終日、立憲民主党・枝野幸男代表によって行われた内閣不信任案趣旨説明演説は、その内容、格調の高さから憲政史に残る名演説と、大きな話題と共感を呼びました。枝野演説の真髄といえる保守とは、立憲主義とは何か。政治思想家・中島岳志の新刊『保守と立憲』第1章「保守と立憲――不完全な私たち」と第3章「リベラルな現実主義――対談・枝野幸男」を全7回にわたり緊急配信!

中島岳志(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)

右左の二項対立を超えて

 2017年の半ば以降、安倍内閣の支持率と不支持率が拮抗し、時に不支持が支持を上回るようになっています。

 アベノミクスによって経済がよくなったと言われても、実質賃金は低下しており、庶民の財布の中身は一向に豊かになりません。一方で、安倍内閣は加計学園問題をめぐって、知人への不公正な優遇を行った疑惑を追及されています。秘密保護法や共謀罪の成立で将来の言論活動の萎縮が懸念され、安保法制の成立をめぐっては、強引な解釈改憲によって立憲主義がないがしろにされました。2013年12月には安倍首相が靖国神社参拝を行うなど、右派的な歴史認識も相変わらずです。

 このような右派的で強引な政権運営に対して、多くの人が不安や嫌悪を抱いているのでしょう。支持率の低下と不支持率の上昇は、その結果と言えます。

 しかし、安倍内閣は選挙で勝ち続け、衆参両議会で圧倒的な数を維持しています。不支持率が高いにもかかわらず、多数派を形成し続ける自公政権。なぜ、そのようなことが続くのでしょうか?

 もちろん大きな原因のひとつは選挙制度にあるのですが、それ以上に重要なのは、国民にとって「もうひとつの希望ある選択肢」が、なかなか見いだせなかったという現実があります。

 安倍内閣が「一隻の船」だとしましょう。この船は徐々に傾き、沈んで行っている。しかし、乗り移るべき別の船が見当たらない。あっちに移れば大丈夫という安心感や希望を与えてくれる代わりの船が見当たらない。仕方がないので、ズブズブと沈んで行く船にしがみついている。そんな状況が、最近の多くの国民のあり方なのではないでしょうか。

 従来の構図で言えば、右派政権に対抗するのは左派ということになるでしょう。しかし、彼らの多くは教条的で、時に実現可能性やリアリズムを無視した反対意見を振りかざします。その態度はしばしば強硬で、何か自分たちが「絶対的な正さ」を所有しているような雰囲気を醸し出しています。

 多くの庶民は、その姿に違和感と嫌悪感を抱いてきたのだと思います。左派の主張や行動には、「自分たちは間違えていない」という思い上がりが多分に含まれていました。生活世界の良識を大切にしてきた庶民にとって、その独断的でドグマ的な態度は、修正の余地を残さない「上から目線」と捉えられ、忌避されてきたのでしょう。

今求められている「もう一隻の船」

 ――「強権的なウヨク政権」と「教条的なサヨク運動」。

 この両者は、対立しているように見えて、実は同じ態度を共有しています。それは自分と異なる人の意見に、なかなか耳を傾けようとしないという点です。両者とも「自分たちの正しさ」を疑わず、丁寧な合意形成を拒絶するという点で、同じ穴の貉のように見えます。このような態度が、庶民からは「上から目線」と見なされ、「厄介な人たち」として距離をとられてきたのだと思います。

 今、重要なのは、この二項対立を超えた「もう一隻の船」を準備することではないでしょうか。多くの国民が求めているのは、極端な選択肢ではありません。極端な態度の中には、自らの能力に対する過信や特定の政治的立場に対する盲信が含まれています。そのためどうしても独善的になりがちで、他者の見解を頭ごなしに退けようとします。

 大切なのは、自己の正しさを不断に疑い、他者の多様性を認める姿勢です。異なる見解の人に対してバッシングをするのではなく、話し合いによる合意形成を重んじ、現実的な解決を目指す態度こそ重要です。

 私はこのような態度こそ「リベラル」の本質だと思っています。そして、「保守」の本質だとも思っています。リベラルの反対語は「パターナル」です。「保守」ではありません。「パターナル」とは「父権的」と訳されるように、強い立場にある人間が、相手の意志を問わずに介入・干渉する態度を言います。「強権的なウヨク」も「教条的なサヨク」も、基本的にパターナルです。いくらリベラルなことを言っていても、態度がリベラルでなければ意味がありません。

 今、求められている「もう一隻の船」は、「リベラルな現実主義」です。私はこの立場を「リベラル保守」という言葉で表現してきました。本書では、「リベラル」と「現実主義な保守」に橋をかけながら、「もう一隻の船」の輪郭を示したいと思います。

(撮影:山口こすも)

保守とは何か

 さて、ここでは「保守」とはどのような思想なのかを考える必要があります。最近は「保守」という言葉が政治の場で溢れ、一種の「保守バブル」が起きています。しかし、そこで言われる「保守」は、論者によってバラバラで、一定した内容を有していません。それぞれが自分の都合のいいように「保守」という言葉を使っているだけのように見えます。

 では一体、「保守」とは、どのような思想なのでしょうか?

 この問題を考える際に、ひとりの学者の手を借りることにします。カール・マンハイムという二十世紀前半に知識社会学を構想した人です。

 彼には『保守主義的思考』(1927年)という重要な著作があります。保守思想を考察する際には、必ず参照しなければならない本のひとつです。

 マンハイムは、ここで「伝統主義」(自然的保守主義)と「保守主義」(近代的保守主義)を明確に区別するべきだと主張します。まずは、彼の言葉を引用してみましょう。

 われわれは、普遍的な人間の本性としての伝統主義と、ひとつの特殊な歴史的・近代的現象としての保守主義とを区別する。(カール・マンハイム『保守主義的思考』ちくま学芸文庫、1997年)

 マンハイムは、「伝統主義」を「普遍的な人間の本性」と位置付けています。たとえば私たちは、一度も行ったことのない外国にひとりで降り立った時、不安な気持ちを抱き、場合によっては「早く日本に帰りたい」と思ったりするでしょう。あるいは、長年親しんできた慣習を急に変えることに抵抗を感じたりします。このような態度のことを一般的に「保守的」と言ったりしますが、これはあくまでも「普遍的な人間の本性」で、政治的な立場を超えてほとんどの人が共有しているものです。これを政治上の「保守」と定義づけると、人類はみんな「保守」ということになってしまいます。

 マンハイムは、このような「人間の普遍的な本性」を「伝統主義」と位置付け、「保守主義」と区別しました。

大切なものを守るために変わる

 では、保守主義とはどのような思想なのでしょうか?

 彼は「ひとつの特殊な歴史的・近代的現象」と言っています。つまり、近代という時代の中で産み出された歴史的で特殊な立場が「保守主義」だと言います。では、いつどこで、だれが「保守主義」というものを産み出したのでしょうか?

 その発端に位置づけられるのは、近代保守思想の祖として知られる十八世紀イギリスの政治家エドマンド・バークです。彼は、1790年に『フランス革命についての省察』という本を出版し、同時代に起きたフランス革命を厳しく批判しました。この本が嚆矢となって、近代保守思想は誕生したとされます。

 バークは、海を隔てた隣国・フランスで起きた革命を批判しました。彼はフランス革命の中に、近代主義の様々な問題を見出したのですが、その中心には理性を万能視する人間観への不信がありました。

 バークは、フランス革命を支えた左派的啓蒙主義が、人間の理性を無謬の存在と見なしていることに疑問をぶつけました。バーク曰く、革命家や啓蒙主義者たちは、人間の理性を間違いのないものだと考え過ぎています。合理的に物事を進めていけば、世界はどんどん進歩して行き、やがて理想的な世界を作ることができる。人間はユートピアを合理的に設計し、構築することができる。そんな人間観が共有されていることに、バークは違和感を表明しました。

 冷静に人間を見つめてみると、どんなに頭のいい人でも世界を完全に把握することはできず、時に過ちや誤認を犯してしまうことに気づきます。どんなに立派な人でも、エゴイズムや嫉妬から完全に自由になることはできません。人間は知的にも倫理的にも不完全な存在であり、これは過去・現在・未来にわたって一貫しています。

 バークはこのような人間観から、フランス革命が人間の完成可能性を前提としている点を厳しく批判し、人間の不完全性を強調しました。

 不完全な人間によって構成される社会は、どうしても不完全のまま推移せざるを得ないと、バークは指摘します。人間は有限なる存在で、完全性を手にすることなどあり得ません。パーフェクトな人間など、これまでの歴史の中には誰ひとりとして存在せず、またこれからの世界にも存在しえません。だとすれば、不完全な人間が作る社会は、永遠に不完全であって、完成などしない。そう考えました。

 バークは理性の存在を否定したのではありません。理性の万能性を疑ったのです。バークは真に理性的な人間こそ、理性によって理性の限界を把握していると言います。理性の無謬性を説くことは、真に理性的な行為ではなく、理性に対する根拠なき盲信に過ぎません。人間は不完全なので、どうしてもその理性の中に間違い(誤謬)を含んでいます。そのことを冷静に捉えることができるのが、真に理性的な人間だとバークは見なしました。

 では、不完全な社会を安定的に維持し、秩序を保持していくには、どのようにしていけばよいのでしょうか? バークは個人の理性を超えたものの中に英知が宿っていると考え、その存在に注目しました。それは多くの庶民によって蓄積されてきた良識や経験知であり、歴史の風雪に耐えてきた伝統です。頭のいいエリートが書いた設計図や思想よりも、多くの無名の人たちが長い時間をかけて紡ぎ上げてきた経験知や良識に、まずは依拠してみるのが重要なのではないかと考えました。

 しかし、過去の人間も、今の人間と同様に不完全です。いくら集合的な経験知と言っても、その中には過ちも含まれています。限界もあるでしょう。しかも、世の中はどんどん変わっていきます。50年前には素晴らしかった福祉制度でも、人口構成が違ってくれば、そのままでは意味をなしません。やっぱり変えていかなければならない。大切なものを守るためには、変わっていかなければならない。そのため、バークは「保守するための改革」が重要だと言いました。

 ただし、それは左派の革命のように、「これが正しい」と一気に世の中を改造しようとするのではなく、歴史の中の様々な叡智に耳を傾けながら、徐々に変えていくことが望ましいと言います。改革は常に漸進的(グラジュアル)でなければならない。保守が重視するのは、「革命」ではなく「永遠の微調整」です。そこには人間の能力に対する過信を諌め、過去の人間によって蓄積されてきた暗黙知にたいする畏怖の念が反映されています。

次回「保守とリベラルの親和性。死者の立憲主義――保守にとっての立憲主義」は公開予定

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この連載について

保守と立憲 世界によって私が変えられないために

中島岳志

2018年7月20日、第196回国会の実質的な最終日、立憲民主党・枝野幸男代表によって行われた内閣不信任案趣旨説明演説は、その内容、格調の高さから憲政史に残る名演説と、大きな話題と共感を呼んだ。枝野演説の真髄といえる保守とは、立憲主義...もっと読む

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保守とリベラルの親和性。死者の立憲主義—保守にとっての立憲主義

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中島岳志(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)

保守とリベラル

 一方、現代的な意味での「リベラル」という観念は、ヨーロッパにおいて宗教対立を乗り越えようとする営為の中から生まれたものでした。17世紀の前半、ヨーロッパは三十年戦争という泥沼の宗教戦争(カソリックvsプロテスタント)を経験しました。ヨーロッパ人は宗教的な価値観の違いをめぐって、約30年にもわたる戦争を行ったのです。この戦争が終結した時、これ以上、価値観の問題で争うことを避けるため、異なる他者への「寛容」の精神が重要だという議論になりました。この「寛容」が、「リベラル」の起源です。自分とは相容れない価値観であっても、まずは相手の立場を認め、寛容になること。個人の価値観については、権力から介入されず、自由が保障されること。この原則がリベラルの原点であり、重要なポイントとなりました。

「リベラル」の原理は、保守思想と極めて親和的です。繰り返しになりますが、保守は懐疑主義的な人間観を共有します。もちろん、この人間観は、他ならない自分にも向けられます。自分の考えや主張は、完全なものではない。間違いや事実誤認が含まれているかもしれない。自分が見逃している視点があるかもしれない。もっといい解決策があるかもしれない。そのように自分に対する懐疑の念が生れると、当然、他者の声に耳を傾け、自己の見解に磨きをかけようとします。間違いがあれば修正し、少数者の主張に理があれば、その意見を取り入れて合意形成をしようとします。保守の懐疑主義は、他者との対話や寛容を促します。

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リベラルの対立軸はパターナル。リベラル保守による現実主義

2018年7月20日、立憲民主党・枝野幸男代表による内閣不信任案趣旨説明演説は、その内容、格調の高さから憲政史に残る名演説と、大きな話題と共感を呼びました。枝野演説の真髄といえる保守、立憲主義とは。政治思想家・中島岳志の新刊『保守と立憲』より「保守と立憲――不完全な私たち」「リベラルな現実主義――対談・枝野幸男」の2章を緊急配信。政治の見取り図を整理し、リベラル保守による現実主義について考えます。

政治の見取り図

 さて、ここで現在の政治を整理してみたいと思います。下の図を見て下さい。

 政治(特に内政)は、大きく分けてふたつの仕事を担っています。ひとつは「お金」をめぐる仕事。もうひとつは「価値」をめぐる仕事です。

「お金」をめぐる仕事のあり方については、「リスクの個人化」と「リスクの社会化」というふたつに方向性が分かれます。人間は、生きている限り様々なリスクにさらされ続けます。明日、突然難病を発症するかもしれず、またいつ交通事故に遭ってこれまで通りの生活ができなくなるかもしれません。

 このようなリスクに対して、「リスクの個人化」路線は、「自己責任」を突きつけます。政府は税金をあまり多く取らない代わりに、福祉などのサービスを手厚くはしません。あくまでもリスクに対しては個人で対応することを要求します。いわゆる「小さな政府」というあり方です。

 一方、「リスクの社会化」路線は、「セーフティネットの強化」を打ち出します。個人に降りかかるリスクに対して、できるだけ社会全体で対応することを目指し、福祉などのサービスを充実させます。民間のNPO活動や寄付なども活発化させ、人々が窮地に陥らないようにケアし合います。この路線は、税金は高くなるけれども、サービスが充実するという「大きな政府」というあり方につながります。

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