Monday, October 4, 2021

17 「リベラル」の逆は「保守」ではなく…歴史に耐えるものさしで、中島岳志さんと現代日本を読み解く政治学(江川紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース

「リベラル」の逆は「保守」ではなく…歴史に耐えるものさしで、中島岳志さんと現代日本を読み解く政治学(江川紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース

「リベラル」の逆は「保守」ではなく…歴史に耐えるものさしで、中島岳志さんと現代日本を読み解く政治学

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
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多くの聴衆を前に、安倍政権を「保守ではない」と断じる小林よしのりさん

 衆議院解散後、マスメディアでは「リベラル」「保守」という2つの言葉をよく目にする。公示直前に新党が相次いででき、その位置づけを明確にしようという意図があるのだろうが、言葉の使われ方や解説には、どうもピンとこないことが多い。今回の選挙が、「3極対決」「三つ巴」などと表現されたのにも疑問を感じた。

 長らく保守政党と見られていた自民党だが、保守派論客から「安倍政権は保守ではない」との指摘も相次ぐ。では、「保守」でないなら何なのだろうか?

 立憲民主党を立ち上げた枝野幸男代表は、自らを「保守でありリベラル」と位置づけている。「保守」と「リベラル」は対立概念として使われがちだが、そうではないのだろうか?

 さらに、小池百合子都知事は自らが代表となっている希望の党を「寛容な改革の精神に燃えた保守」と称している。なんだか言葉の組み合わせがミスマッチに感じられ、その実がよく分からない。

 こうした様々な疑問や違和感を抱えながら、リベラル保守宣言』(新潮文庫)などの著書がある政治学者で東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授の中島岳志さんを訪ね、じっくりお話を伺った。

中島岳志さん。東工大の研究室で
中島岳志さん。東工大の研究室で

「リベラル」ってなに?

――「リベラル」というのは、そもそもどういう概念なんでしょうか。ご著書では、キリスト教の宗教改革に起源があるとのことでしたが……。

 16世紀の宗教改革以降、カトリックとプロテスタントの対立で、ヨーロッパは二分されます。両者の価値観をめぐる対立から、30年戦争が起きます。その末に1648年、日本で言えば江戸初期の頃ですが、ウェストファリア条約結ばれます。

――世界史に出て来ましたね、ウェストファリア条約。

価値観の対立から血で血を洗う30年戦争になった教訓からリベラルが生まれた
価値観の対立から血で血を洗う30年戦争になった教訓からリベラルが生まれた

 これは初めての近代的な国際法で、これで主権国家体制が確立し、戦わないための秩序が作られました。「リベラル」はそういう中で生まれた概念です。

 価値の問題で争っていると、血で血を洗う悲惨なことになる。だから、お互いに相手の価値観に寛容になろう、と。そして、自分自身の自由、とりわけ内面的な価値観については国家から干渉されない、という考え方。つまり、「リベラル」の基本は「寛容」と「自由」がセットなのです。

――「自由」だけではない、と……。

 はい。ただ、「リベラル」はその後2つの方向に分かれていきます。それをアイザイア・バーリンというイギリスの政治哲学者が、「……への自由」を「積極的自由」、「……からの自由」「消極的自由と名付けました。そして、後者の「消極的自由」が重要であると言います。

権力が個人の内面とか人権とか財産権とかに土足で踏み込んで制約をするのはよくない、という「権力からの自由」です。

 一方の「積極的自由」は、みんなの自由を実現するためには、国や権力が個人の領域に介入する必要がある、と考える。たとえば、市場に任せておくと、格差や不平等が生じる。だから、金持ちからいっぱい税金をとって、みんなで分けて、各自が自由を追求するための基礎要件を国が整備するべきである、と。権力が積極的に関わることで、真の自由に到達するという考え方です。これは、福祉国家の実現とか、マルクスの革命とかにつながる。

 バーリンは、この「積極的自由」は「自由のパラドックス」に陥る、と指摘しました。自由を求めると言いながら、人々の自由を自由を制限しなければならない。その典型が共産主義。なので、求めるのは「消極的自由」に留めるべきだ、という考えでした。

 ただ、「消極的自由」を求め続ければ、「小さな政府」になり、現代的な発展型としては、徹底して規制を緩和し、経済を自由な競争に委ねる新自由主義になっていったり、リバタリアンとなっていきます。現代では、新自由主義経済が進んだ結果、いろんなところにひずみが生じ、格差が広がるグローバル資本主義の問題にぶつかっています。

――どちらも、やり過ぎると問題が生じる。

 そうなんです。だから、真ん中の均衡状態を考える。バランスのとれたもの。それが、保守的リベラルなんです。

「保守」と「リベラル」の関係

――ただ、「保守」と「リベラル」は対立するものとして語られることが多いですね。

 問題はアメリカで、ここが「リベラル=左翼」のイメージを作り出している。アメリカではどちらかというと福祉国家的なサービスをする民主党がリベラルで、個人の自由を重視する共和党が保守という二項対立だとされています。

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 日本は、90年代以降に、この枠組みを踏襲し始めたんですね。ソ連の崩壊、冷戦の終了で、「左」は自分たちを表象する言葉を失っていきました。「やっぱり共産主義はダメだ」となって、「革新」に「時代から外れた人たち」というイメージがついたために、別の言葉を探したんですね。その彼らが飛びついたのがアメリカの枠組みで、「保守」に対する「リベラル」だった。

 それまでは、保守の方が「自分たちがリベラルだ」と言っていたんです。ソ連や中国は全然自由がない、本当の自由主義者は西側陣営である我々である、と。だからこそ、自由民主党Liberal Democratic Partyなんですね。ところが、左派が「リベラル」と言い始めた頃、保守も同じくアメリカの枠組みを使って、「我々は保守だ」と言うようになった。そして、共和党的な「小さな政府」の方向に変容していきます。

――表象だけでなく、中身も変わっていった……。

 かつての自民党政府は、どちらかというと大きな政府でサービスをちゃんとやります、というものでした。しかし、そのやり方に問題があった。ムラ社会的ヒエラルキーを使った裏金とか、業界団体を使って金を配るとか……。そういう不公正な再配分によって日本は成り立っていて、自民党はその再配分に強い政党でした。それを批判され、政治改革の必要性を叫ぶ論者が現れ、自民党も橋本内閣の頃から、規制緩和、構造改革、行政改革に力を入れるようになります。そして、日本は大きすぎる政府だ、個人に任せるべきだ、という「自己責任論」の方に傾斜していきました。

――そして小泉さんが登場するわけですね。

 そうして「消極的自由主義」を進め、新自由主義を押し進めていくと、どうなるでしょうか。

 自己責任で自由を与えられていくと、人々はどんどん孤立し、孤独になっていく。そうすると、人は不安になる。その結果、強いリーダーに引かれて権威主義者に飛びついていく。これがナチスで起きたことだと、E・フロムが『自由からの逃走』で指摘しています。自由を与えられたゆえに、人々は自由から逃げて行く、という逆説的現象です。

――――「消極的自由主義」にも「自由のパラドックス」はあるわけですね。

 新自由主義ではこれが起きやすい。全部「自己責任ですよ」と言われると、人は不安になるので、ズバッと言ってくれる、断言してくれる権威主義的パーソナリティに流れやすいんです。リベラルを捨ててパターナリズムに陥ってしまう。橋下現象がその典型ですね。

 つまり、「消極的自由主義」も「積極的自由主義」も、過剰になると自由を捨ててしまうという逆説になる。だから、保守というのは、その均衡を保とうとするわけです。

 20世紀、保守の人間は、共産主義とか全体主義について「上からのコントロールによって、未来を設計的に作ろうとする左派思想である」と批判してきました。それで自由を保護してきたんです。

 ただ、「自由の過剰」というものに対して、保守はブレーキを踏もうとします。それは「積極的」にしろ「消極的」にしろ、行き過ぎると、クルッと反転して、パターナルな、つまり上からの押し付けになってしまう。これはよくない。だから、バランス感覚を大事にするのが、保守的なリベラルのあり方。「保守」vs「リベラル」ではないんです。

「保守」ってなに?

――そもそも「保守」とは何でしょうか。

 保守は、エドマンド・バークというイギリスの政治思想家から出て来た思想潮流です。彼は、『フランス革命についての省察』という本で、フランス革命を批判します。「そもそも人間観がおかしい」と言ったんですね。

――人間観とは?

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 フランス革命を支えた左派的啓蒙主義は、人間の理性を無謬の存在、つまり間違いのないものだと考え過ぎている、と。つまり、合理的なことを進めていけば、世界はいい方向で進歩し、やがて理想的な世界を作ることが可能である、という設計的な合理主義です。だから、みんな革命とかやってがんばろうぜ、というイデオロギー。

 これに対して、「しかし、人間というのは間違いやすいものだ」とバークは言ったんですね。どんなに頭がいい人でも、世界全体を過不足なく把握することはできないし、間違えることはある。どんなにいい人でも、一切のエゴイズムや嫉妬心などから解放されているわけでもない。「人間は知的にも倫理的にも不完全な存在として、過去現在未来にわたって存在している。そういう人間が作る社会は、やっぱり不完全なんじゃないですか」とバークは問いかけました。

革命ではなく「永遠の微調整」を

――では、理性でなく、何に依拠して社会をつくっていけばいいと?

 バークはこう考えました。頭のいい1人が書いた設計図とか思想よりも、多くの無名の人たちが長い時間をかけて紡ぎ上げてきた経験知であったり良識、それは伝統や慣習として姿を現すものですが、そういうものにまずは依拠してみるのが重要じゃないか、と。

 しかし、過去の人間も、今の人間も不完全である。しかも、世の中はどんどん変わっていく。50年前にはいい福祉制度でも、今は人口構成が違うとなれば、そのままでは意味をなさない。やっぱり変えていかなきゃならない。だから、大切なものを守る(保守する)ために、現状に合わせて変わっていかなきゃならない、とバークは言います。

 ただし、それは左派の革命のように、「これが正しい答えです。この通りにやって下さい」と言うのではなく、歴史の中の様々な叡智に耳を傾けながら、徐々に変えていく。つまり「永遠の微調整」です。漸進的な改革を常にやり続けていくのが保守的な世界認識だ、と。

 だから、特定の人間の設計図に基づいて、急進的に理想社会を作ろうとしたフランス革命には必ず反動がくる、と彼は予言しました。混乱が生じ、人々が権威主義的な人間に飛びついて、独裁的な政治が生まれるだろう、と。実際にその通りになりました。

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 ナポレオンの登場です。生活の秩序を奪われた時、人々は不安になって「断言」に頼っていく現象が起きました。

 だからこそ、変えていくのは徐々にでなければいけない、劇薬は反動を産み出す。これが保守の考えです。

「永遠の過渡期」を生き抜く知恵は

――「断じて変えない」「古いものにしがみつく」わけでもない、と。

 そうです。よく保守は「復古主義」と誤解されます。昔に戻れと言っているように勘違いされる。しかし、これは違います。なぜなら、昔も不完全な人間がやっていたわけですから、間違いもいっぱいやっている。だから、復古主義はとれない。

 2つ目に、保守は「反動だ」とも言われるんですね。けれども、保守は現状にしがみつくわけではないんです。それは、僕たちが不完全だからです。歴史の叡智に照らしながら、徐々に改革をしていきましょう、と。なので、「反動」という立場はとれません。

 3つ目に、「進歩」というのもとれない。それは、未来の人間も不完全で問題を起こすからです。左派が言うように、理性的になればいい社会ができるという進歩主義はとれない。

 小林秀雄は「永遠の過渡期」と言っていますが、ずーっと過渡期の中を僕らを生きている。それを生き抜く知恵は、慣習とか伝統の中に埋もれた庶民の良識ではないか。普通の人たちが持ってきたコモンセンスではないか。

本当の「保守政治」とは

――そうした保守の政治の特徴は何でしょう。

 保守は、「こうすれば必ずうまく行く」という左派的な思想はとりません。だから、丁寧に合意形成をしていくんですね。なぜかというと、保守政治家には「自分も完全ではない」という認識がある。間違っているかもしれない。だから、いろんな人たちの意見を聞いてみよう、と。少数者の意見に「なるほど」と思えば、その意見を反映して合意形成をしながら一つ一つやっていく。これが伝統的な保守政治家のスタイル。だから、「議論」とか「対話」を重視してきた。

大平正芳氏(首相官邸HPより)
大平正芳氏(首相官邸HPより)

 僕が尊敬している大平正芳(元首相、故人)は、「政治は60点じゃないといけない」と言っています。いろんな人の話を聞きながら、60点くらいに収めるのが、実は一番正解に近い、と。だから彼は社会党や共産党の話も聞いて合意形成をしていった。その方が、相手も納得して秩序が安定的に続くだろう、という考えたんですね。

――今の自民党とはずいぶん違いますね。

記者会見で衆議院解散を発表する安倍首相(撮影:小川裕夫)
記者会見で衆議院解散を発表する安倍首相(撮影:小川裕夫)

 そう考えていくと、果たして安倍さんは保守なんだろうか。国会を議論の場と考えず、言い勝てばいい、というのは、保守の態度ではない。安倍さんは、中国を嫌っているようですが、安倍さんと中国共産党は両方ともリベラルから遠いという点では、実は似ている。

 保守は自己に対する懐疑もあってリベラルな態度をとるんです。実は、保守とリベラルは大変相性がいい

「リベラル」の反対語は

―今の自民党は「保守」でないとすると、何なのでしょう。

 



中島岳志さんのお話に基づいた政党相関図


「リベラル」は、個人の内面の問題について国家が踏み込まないのが基本。その反対語は「保守」ではなく、「パターナル」です。権威主義ですね。故人の内面に直結する価値観の問題を、「日本人ならば、こうあるべきだ」「この問題はこう考えなければならない」といったように、上から決めていく。

 今の自民党政権は、権威主義的でかつ小さな政府です。90年代以降の改革によって、日本はすでに「小さすぎる政府」になっています。租税負担率も低いし、全GDPに占める国家歳出の割合、つまり全経済活動の中でどれだけ国家が関与しているかという数字も小さい。公務員の数も少なく、人口1000人当たり40人くらいしかいない。アメリカは70人くらいです。ヨーロッパに行くと、80人とか90人とかいる。日本は、すでにアメリカより小さな政府なんです。

――公務員が多すぎるから、もっと減らせと言っている政治家もいますが…。

 地方では公務員が足りず、非正規労働で埋めて、官製ワーキングプアみたいな現象も起きている。経験知がちゃんと伝わっていないために、災害に弱い行政になってしまっている問題もあります。

今回の選挙は「三極対立」ではない

――ところで、今回の選挙では「三極の対立」とメディアは盛んに言いましたが、釈然としません。

衆議院選初日、池袋駅西口で第一声をあげる小池百合子希望の党代表(撮影:小川裕夫)
衆議院選初日、池袋駅西口で第一声をあげる小池百合子希望の党代表(撮影:小川裕夫)

 希望の党は、自民党とは別の軸を立てると言いながら、実は同じなんです。小池さんは生活保護に厳しく「自助が大切」という考え。歴史認識なども含めて、明らかにパターナルです。自民党に対抗する二大政党と言うなら、相関図の別のところに軸を立てなきゃいけない。なのに同じところにいるからワケが分からなくなっている。”all for all”と言いながら、自己責任。しかも小池さんのトップダウン。だから、国民には別の選択肢に見えない。そのうえ維新も同じところにいる。

 逆に、うまく対立軸を作ったのは、立憲民主党です。理性に対する謙虚さを持つ保守を打ち出しつつ、セーフティーネットを構築していこうというリベラルですから。

新宿駅東南口での演説を終えて、拍手に応える枝野幸男・立憲民主党代表
新宿駅東南口での演説を終えて、拍手に応える枝野幸男・立憲民主党代表

――「リベラル」の反対語が「パターナル」なら、「保守」の反対語は何でしょう。 

一言でいえば、「革新」でしょうね。

――安倍さんは「革新」……。 

そうでしょう、「革命」とか言っていますからね。いろんなことに反対して、変えないという点では、むしろ共産党が保守的。TPP反対して農家を守れとか、中小企業をちゃんと保護しろとか、保守的な主張そのものです。

単純化と断言を導くテレビ

――最初にリベラルの基本は「自由」と「寛容」だという話がありましたが、「リベラルは正義を振りかざして不寛容だ」という批判もあります。リベラルを標榜する方々に、私自身もそれを感じることがあります

 それはまさに「積極的自由」のパラドックスです。リベラルが行き過ぎて、「これが正しい自由だ」というパターナルな態度になってしまい、他者の自由を抑圧していくパターンですね。

 例えば原発反対運動。僕も原発反対なんですが、反対運動のやり方に異を唱えると、すごいバッシングが来ます。何回か炎上した。デモでも、非暴力と言いながら、言葉はすごく暴力的だったりしますね。

――その一方で、「保守」と自称している人が、すごく攻撃的なのも気になります。「保守」はもっと包容力があったはずなのに……。

 95年くらいを境に、不安が蔓延し、人々が「断言」を求める傾向が強くなっているように思います。

 テレビの司会者もみのもんたとかやしきたかじんとか、断言しながら進行していく人が出て来て、すごく感情を煽るような番組になっていった。その前のワイドショーでは、『ルックルックこんにちわ』とか、岸部四郎がゆるゆると司会をやってたんですがね。

 90年代後半にNHKでリサーチャーのアルバイトをしていたことがあります。『その時歴史は動いた』という番組に関わっていました。でも、歴史を勉強してきた者からすれば、「その時歴史は動いた」りしないんですよ。何月何日に歴史が動いた、みたいにするのは違う。テレビは「分かりやすさ」と「単純さ」の区別がついてないんですね。本来「分かりやすさ」とは、丁寧に説明することだと思うのですが、「それでは(視聴者に)受け入れられない」と言うわけです。

 田原総一朗さんの手法も「イエス・ノー」ですよね。田原さんはカメラが回ってないところではいい人なんですが…。『朝まで生テレビ』って、断言をし合う番組ですよね。あれを「議論」と言っちゃいけない。あれは「言い合い」。ワーッと言い合って、大声の方が勝ちというゲームです。「議論」というのは、「なるほどあの人が言っていることには理があるな」と思ったら、自分の意見を変えるという態度がないとできない。「保守」が考える「議論」は、そういうものです。『朝生』は、「議論」というものの信用度を失わせた番組だと思うんです。

――「論破する」のが好きな人も増えているのも、そうした番組の影響があるのではないか、と。

 そう思います。そういうものに、僕たちはこの20年間、不安の中で心の拠り所を求めてきたんじゃないか。ズバッと言って欲しい。「朝ズバ」っていう番組名には、なるほどと思いました。そういうのに慣らされた結果、橋下現象があり、小池さんが出て来たり、安倍内閣がずっと続いているんじゃないか。それが保守と呼ばれることに、僕は苛立ちを覚えます。

目指すべきは…

――まっとうな「保守」「リベラル」を取り戻したい?

 そうですね。「保守」と語るなら、ちゃんと「保守」を定義してから言いましょう、と。そして、安倍さんのパターナリズムを疑いながら、左のパターナリズムも疑うのが、庶民の叡智に基づいたリベラルというものだと思います。

 アメリカの今の政治に引きずられず、あるいは政党や党首の主張やメディアの解説を鵜呑みにせず、長い歴史に耐えたものさしを手にしながら、今の日本の政治や社会を冷静に見つめる。そして、極端な言説や態度に引き寄せられずに、自分自身の態度を決めていく。その大切さを、中島さんの話からつくづく考えさせられた。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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「リベラル」'자유주의'의 반대는 '보수'가 아닌 ... 역사에 견딜 잣대 나카지마 타케시 씨와 현대 일본을 해독 정치학

에가와紹子기자 · 카나가와 대학 특임 교수
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많은 청중에 아베 정권을 '보수는 없다 "고 断じる 고바야시 요시노리 씨

 중의원 해산 후 언론에서는 "자유주의" '보수'라는 두 단어를 자주 볼 수있다. 공시 직전에 신당이 잇따르고있어 그 입지를 명확히하려는 의도가있는 것이지만, 말의 사용 방법과 설명은 아무래도 감이 오지 않는 경우가 많다. 이번 선거가 '3 극 대결' '삼파전'등으로 표현 된 데 대해서도 의문을 느꼈다.

 오랫동안 보수 정당으로 볼 수 있던 자민당이지만, 보수 논객에서 "아베 정권은 보수가 아니다"라는 지적도 잇따른다. 는 '보수'가 아니라면 무엇 것인가?

 입헌 민주당을 시작한 에다 노 유키오 대표는 스스로를 '보수이며 자유주의 "라고 평가하고있다. '보수'와 '자유주의'는 대립 개념으로 사용하기 쉽지만, 그렇지 않은 것인가?

 또한, 고이케 유리코 도지사는 자신이 대표가되고있는 희망의 당을 '관용 개혁의 정신에 불탄 보수'라고 칭하고있다. 왠지 말의 조합이 불일치에 느껴지고, 그 열매가 잘 모르겠다.

 이러한 다양한 의문이나 위화감을 안고 "자유주의 보수 선언」(신쵸 문고) 등의 저서가 정치 학자 도쿄 공업 대학 교양 연구 교육원 교수 나카지마 타케시 씨를 방문, 차분히 이야기를 들었다.

나카지마 타케시 씨.  테크 연구소
나카지마 타케시 씨. 테크 연구소

"자유주의"뭐?

- "자유주의"라는 것은 원래 어떤 개념적인 것입니까. 저서로는 기독교의 종교 개혁에 기원 한 것이 었는데 ...

 16 세기의 종교 개혁 이후 가톨릭과 개신교의 대립으로 유럽은 양분됩니다. 양자의 가치관을 둘러싼 대립에서 30 년 전쟁이 일어납니다. 그 끝에 1648 년 일본에서 말하면에도 초기이지만, 베스트 팔렌 조약이 체결됩니다.

- 세계사에 나오고 있었어요, 베스트 팔렌 조약.

가치관의 대립에서 피로 피를 씻는 30 년 전쟁이 교훈에서 자유주의가 태어난
가치관의 대립에서 피로 피를 씻는 30 년 전쟁이 교훈에서 자유주의가 태어난

 이것은 처음의 현대 국제법에서 이제 주권 국가 체제가 확립 싸우지 않기 때문에 질서가 만들어졌습니다. "자유주의"그런 속에서 태어난 개념입니다.

 가치의 문제로 다투고있다하면 피로 피를 씻는 비참한된다. 그래서 서로 상대의 가치관에 관대해질 것이라고. 그리고 자신의 자유, 특히 내면적 인 가치에 대해서 국가에서 간섭한다는 생각. 즉, "자유"의 기본은 '관용'과 '자유'가 세트입니다.

- '자유'만이 아닌, 그리고 ...

 예. 단, "자유"그럼 두 방향으로 나누어 져갑니다. 그것을 아이자이아 벌린는 영국의 정치 철학자가 "......에 대한 자유 '를' 적극적 자유 ','......의 자유 '' 소극적 자유 '로 명명했습니다. 그리고 후자의 '소극적 자유'가 중요하다고 말합니다. 권력이 개인의 내면이나 인권이나 재산권 라든지 토족으로 나아가 제약을하는 것은 좋지 않다는 "권력으로부터의 자유 '입니다.

 한편 '적극적 자유'는 모두의 자유를 실현하기 위해서는 국가와 권력이 개인의 영역에 개입 할 필요가 있다고 생각한다. 예를 들어, 시장에 맡겨두면 격차와 불평등이 생긴다. 그래서 부자에서 가득 세금을 취하고, 모두 나누어 각자가 자유를 추구하기위한 기초 요구 사항을 국가가 정비해야한다,라고. 권력이 적극 참여함으로써 진정한 자유에 도달한다는 생각입니다. 이것은 복지 국가의 실현이나 마르크스의 혁명 이라든지으로 이어진다.

 벌린은이 '적극적 자유'는 ' 자유의 역설 '에 빠지는 지적했습니다. 자유를 찾는라며 사람들의 자유를 자유를 제한해야한다. 그 전형이 공산주의. 그래서 요구하는 것은 '소극적 자유'에 고정해야한다고 생각했습니다.

 단, '소극적 자유'를 요구 계속하면 '작은 정부'가 현대적인 발전 형으로는 철저하게 규제를 완화하고 경제를 자유 경쟁에 맡기는 신자유주의가 가거나 , 자유 주의적이되어갑니다. 현대에서는 신자유주의 경제가 진행된 결과, 여러 곳에 왜곡이 생겨 격차가 벌어지는 글로벌 자본주의의 문제에 부딪 히고 있습니다.

- 모두 과장하면 문제가 생긴다.

 그렇습니다. 그래서 중간의 균형 상태를 생각한다. 균형 잡힌 것. 그것은 보수적 자유주의이에요.

'보수'와 '자유주의'의 관계

- 단, '보수'와 '자유주의'는 대립하는 것으로 말해지는 것이 많네요.

 문제는 미국에서 여기가 "자유주의 = 좌익 '의 이미지를 만들어 내고있다. 미국에서는 어느 쪽인가하면 복지 국가 인 서비스를 민주당이 진보적으로 개인의 자유를 중시하는 공화당이 보수라는 이항 대립이라고되어 ​​있습니다.

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 일본은 90 년대 이후에이 틀을 답습하기 시작했다 네요. 소련의 붕괴, 냉전의 종료에서 "왼쪽"은 자신을 표상하는 말을 잃어갔습니다. "역시 공산주의는 안된다"가되어 "혁신"에 "시대에서 벗어난 사람들 '이라는 이미지가 붙은 위해 다른 말을 찾았다 네요. 그 그들이 달려든가 미국의 틀에서 '보수'에 대한 '자유'였다.

 그 전까지는 보수 쪽이 "우리가 진보적"이라고 말했다 구요. 소련과 중국은 전혀 자유가없는 진정한 자유 주의자들은 서방 진영이다 우리이다,라고. 그래서 자유 민주당 Liberal Democratic Party 이군요. 그런데 좌파가 "자유주의"라고 시작했을 때, 보수 역시 미국의 틀을 통해 "우리는 보수 다"라고하게되었다. 그리고 공화당 인 '작은 정부'의 방향으로 변화하고 있습니다.

- 표상뿐만 아니라 내용도 변해 갔다 ...

 과거 자민당 정부는 어느 쪽인가하면 큰 정부 에 서비스를 제대로하겠습니다라는 것이 었습니다. 그러나 그 방식에 문제가 있었다. 얼룩 사회적 계층 구조를 이용한 비자금이나 업계 단체를 통해 돈을 배부 라든지 ... 그러한 불공정 한 재분배에 의해 일본은 이루어져 있고, 자민당은 재분배에 강한 정당이었습니다. 그것을 비판하고 정치 개혁의 필요성을 외치는 논자가 나타나 자민당도 하시모토 내각 시절부터 규제 완화, 구조 개혁, 행정 개혁에 주력 할 것입니다. 그리고 일본은 너무 정부 다 개인에 맡겨야한다는 ' 자기 책임론 '으로 기울어 져갔습니다.

- 그리고 고이즈미 씨가 등장하는 것이군요.

 그리하여 '소극적 자유주의'를 진행 신자유주의를 밀고 가면 어떻게 될까요.

 자기 책임에서 자유를 주어 가면, 사람들은 점점 고립되고 외로워지고 간다. 그러면 사람들은 불안해진다. 그 결과, 강한 리더에 끌려 권위주의에게 달려 간다. 이것이 나치에 일어난 일이다하면 E 프롬이 "자유의 도주 '로 지적하고 있습니다. 자유를 주어진 때문에 사람들이 자유롭게 도망 간다라는 역설적 현상입니다.

---- '소극적 자유주의'도 '자유의 역설'은있는 것 같네요.

 신자유주의는 이러한 상황이 발생하기 쉽다. 모두 "자기 책임이에요"라고하면 사람들은 불안되기 때문에 즈박라고 말해주는, 단언 해주는 권위 주의적 성격에 흐르기 쉬운 거예요. 자유주의를 버리고 빠타나리즈무에 빠져 버린다 . 하시모토 현상이 그 전형 네요.

 즉, '소극적 자유주의'도 "적극적 자유주의 '도 과도하면 자유를 버리게하는 역설적 된다. 그래서 보수는 것은 그 균형을 유지하려고하는 것입니다.

 20 세기 보수의 인간은 공산주의이나 전체주의에 대해 "위에서의 제어를 통해 미래를 설계으로 만들고자하는 좌파 사상이다"고 비판했습니다. 그래서 자유를 보호하고 왔어요.

 단, "자유의 과잉 '이라는 것에 대해서 보수는 브레이크를 밟으려고합니다. 그것은 '적극적'해라 '소극적'이든지나 치면 쿠룻과 반전하여 빠타나루 인, 즉 위로부터의 강요되어 버린다. 이것은 좋지 않다. 그래서 균형 감각을 소중히하는 것이 보수적 인 자유주의의 모습. '보수'vs '자유'가 아닌 거죠.

'보수'이란?

- 원래 '보수'란 무엇입니까?

 보수는 에드먼드 버크는 영국의 정치 사상가에서 나온 사상 조류입니다. 그는 "프랑스 혁명에 관한 성찰」라는 책에서 프랑스 혁명을 비판합니다. "원래 인간관이 이상하다"고 말했다군요.

- 인간관은?

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 프랑스 혁명을지지 한 좌파 적 계몽주의는 인간의 이성을 無謬의 존재, 즉 실수없는 것이라고 생각 너무 많이와. 즉, 합리적인 것을 진행시켜 나가면 세계는 좋은 방향으로 발전하고 결국 이상적인 세계를 만드는 것이 가능하다는 설계 적 합리주의입니다. 그래서 모두 혁명 라든지 힘내 자구라는 이데올로기.

 이에 대해 "그러나 인간이란 틀리기 쉬운 것 같다"고 버크는 말했다군요. 아무리 머리가 좋은 사람이라도 세계를 과부족없이 파악할 수없고, 실수가있다. 아무리 좋은 사람이라도 일체의 아집과 질투심 등으로부터 해방되는 것도 아니다. 인간은 지적으로도 윤리적으로도 불완전한 존재로서 과거 현재 미래에 걸쳐 존재하고있다. 그러한 인간이 만든 사회는 역시 불완전 무엇 잖아요 "라고 버크는 물었습니다.

혁명이 아니라 "영원한 미세 조정"

-는 이성이 아니라 무엇에 의거하여 사회를 만들어 가면된다고?

 버크는 이렇게 생각했습니다. 머리가 좋은 1 명이 쓴 설계도이나 사상보다 많은 무명의 사람들이 긴 시간을 들여 뽑아 올려 온 경험 지식이거나 분별 그것은 전통과 관습으로 모습을 드러내는 것입니다 만, 그러한 것에 우선 의거 해 보는 것이 중요 아닐까,라고.

 그러나 과거의 인간도 지금의 인간도 불완전하다. 게다가 세상은 점점 변해 간다. 50 년 전에 좋은 복지 제도도 지금은 인구 구성이 다르다고되면 그대로 말도 안돼. 역시 바꾸어 가지 않으면 안된다. 그래서 소중한 것을 지키기 (유지 관리) 위해 현재에 맞게 변화 해 나가지 않으면 안 , 그리고 버크는 말합니다.

 그러나 그것은 좌파의 혁명처럼 "이것이 정답입니다. 이대로 해주세요」라고 말하는 것이 아니라 역사의 다양한 지혜에 귀를 기울이면서 서서히 바꾸어 간다. 즉 " 영원한 미세 조정 "입니다. 점진적인 개혁을 항상 창 계속해가는 것이 보수적 인 세계 인식 이다,라고.

 그래서 특정 인간의 설계도에 따라 급진적으로 이상 사회를 만들고자 한 프랑스 혁명에는 반드시 반동이 온다, 그는 예언했습니다. 혼란이 생겨 사람들이 권위 주의적 인간에게 달려 들어 독재 정치가 태어날 것이라고. 실제로 그 거리에 있습니다.

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 나폴레옹의 등장입니다. 생활의 질서를 빼앗긴 때, 사람들은 불안해 "긍정 판단"에 의존가는 현상이 일어났습니다.

 그래서 바꾸어가는 것은 서서히 않으면 안 극약은 반동을 낳기. 이것이 보수의 생각입니다.

"영원한 과도기 '를 살아가는 지혜

- "결코 바꾸지 않는다" "과거에 집착"것도 없다고.

 그렇습니다. 잘 보수는 "복고주의"오해됩니다. 옛날로 돌아갈라고하는 착각된다. 하지만 이것은 다릅니다. 왜냐하면 옛날도 불완전한 인간이하던 것이기 때문에, 실수도 많이하고있다. 그래서 복고주의는 통하지 않는다.

 둘째, 보수는 "반동"이라고 불리는군요. 그러나 보수는 현상에 집착 것은 아닙니다. 그것은 우리들이 불완전하기 때문입니다. 역사의 지혜에 비추어하면서 서서히 개혁을 갑시다,라고. 그래서 "반동"는 입장을 취할 수 없습니다.

 셋째, '진보'라는 것도 통하지 않는다. 그것은 미래의 인간도 불완전 문제를 일으킬 때문입니다. 좌파가 말한대로, 지적인되면 좋은 사회 있다는 진보주의는 통하지 않는다.

 고바야시 히데오는 " 영원한 과도기 "라고하지만, 계속 과도기 속에서 우리를 살고있다. 그것은 살아남는 지혜는 관습이나 전통에 묻혀 서민의 분별이 아닌가. 보통 사람들이 가지고 온 상식이 아닌가.

진정한 '보수 정치'란

- 그러한 보수 정치의 특징은 무엇일까요?

 보수는 "이렇게하면 반드시 잘 나가는 '라는 좌파 적 사상은받지 않습니다. 그래서 정중하게 합의 형성을 해 나가는군요. 왜인가하면, 보수 정치인은 "자신도 완전하지 않다 '라는 인식이있다. 잘못지도 모른다. 그래서 여러 사람들의 의견을 들어 보자,라고. 소수자의 의견에 「과연」라고 생각하면, 그 의견을 반영하여 합의 형성을하면서 하나 하나 지낸다. 이것이 전통적인 보수 정치 스타일. 그래서 '논의'라든가 '대화'를 중시 해왔다.

오히라 마사요시 씨 (수상 관저 HP보다)
오히라 마사요시 씨 (수상 관저 HP보다)

 내가 존경하는 오히라 마사요시 (전 총리 고인)은 "정치는 60 점 아니면 안된다"고 말하고 있습니다. 여러 사람의 이야기를 들으면서, 60 점 정도 넣는 것이 사실 가장 정답에 가깝다고. 그래서 그는 사회당과 공산당의 이야기도 듣고 합의 형성을 갔다. 그 쪽이 상대방도 납득하고 질서가 안정적으로 계속 될 것이라는 생각 이군요.

- 지금의 자민당과는 대단히 다르군요.

기자 회견에서 중의원 해산을 발표하는 아베 총리 (촬영 : 오가와 히로오)
기자 회견에서 중의원 해산을 발표하는 아베 총리 (촬영 : 오가와 히로오)

 그렇게 생각하고 가면, 과연 아베 씨는 보수적 인 것일까. 국회 논의의 장으로 생각하고, 말하고 이기면 좋다라는 것은 보수의 태도가 아니다아베 씨는 중국을 싫어하는 것 같습니다만, 아베 씨와 중국 공산당은 모두 교양에서 멀다는 점은 사실 비슷하다.

 보수는 자신에 대한 의심도있어 자유로운 태도를 취하는 것입니다. 사실 보수와 자유주의는 매우 궁합이 좋다 .

"자유주의"의 반대말은

- 지금의 자민당은 '보수'아니면 그러면 무엇일까요.

 



나카지마 타케시 씨의 이야기에 근거한 정당 상관도

"자유주의"는 개인의 내면의 문제에 대해 국가가 다루지 않는 것이 기본. 그 반대말은 '보수'가 아니라 '빠타나루 " 입니다. 권위주의 네요. 고인의 내면에 직결되는 가치관의 문제를 "일본인이라면 이래야한다」 「이 문제는 이렇게 생각해야한다"등, 위에서 결정한다.

 지금의 자민당 정권은 권위 주의적이면서 작은 정부입니다. 90 년대 이후의 개혁에 의해 일본은 이미 "너무 작은 정부 '가 있습니다. 조세 부담률도 낮고, 전체 GDP 대비 국가 세출의 비율, 즉 전체 경제 활동에서 얼마나 국가가 참여하고 있는가하는 숫자도 작다. 공무원의 숫자도 적고, 인구 1000 명당 40 명 정도 밖에 없다. 미국은 70 명 정도입니다. 유럽에 가서 80 명이나 90 명이나있다. 일본은 이미 미국보다 작은 정부이에요.

- 공무원이 너무 때문에 더 줄이라고 말하는 정치인도 있는데 ....

 지방에서는 공무원이 부족해 비정규직으로 채워 관제 워킹 푸어 같은 현상도 일어나고있다. 경험 지식이 제대로 전달되지 않기 때문에 재해에 약한 행정되어 버리고있는 문제도 있습니다.

이번 선거는 "삼자 대립 '이 아니다

- 그런데 이번 선거에서는 '삼극의 대립'과 미디어는 활발하게 말했지만 석연치 않습니다.

중의원 선거 첫날, 이케부쿠로 역 서쪽 출구에서 첫마디를 올리는 고이케 유리코 희망의 당 대표 (촬영 : 오가와 히로오)
중의원 선거 첫날, 이케부쿠로 역 서쪽 출구에서 첫마디를 올리는 고이케 유리코 희망의 당 대표 (촬영 : 오가와 히로오)

 희망의 당은 자민당과는 다른 축을 세우는라며 사실 같습니다만. 코이케 씨는 생활 보호에 엄격 "자조가 중요하다"는 생각. 역사 인식 등을 포함하여 분명히 빠타나루입니다. 자민당에 대항하는 양당 말한다면, 상관도 다른 곳에 축을 세워 않으면 안된다. 그런데 같은 곳에 있기 때문에 이유를 알 수 없게되어있다. "all for all"라며 자기 책임. 게다가 코이케 씨의 하향식. 그래서 국민에게는 다른 선택이 보이지 않는다. 게다가 유신도 같은 곳에있다.

 반대로, 잘 대립 축을 만든 것은 입헌 민주당입니다. 이성에 대한 겸손을 가진 보수를 내세우고하면서 사회 안전망을 구축 하자는 자유니까요.

신주쿠 역 동쪽 남쪽 출구에서 연설을 마치고 박수를 충족 에다 노 유키오 · 입헌 민주당 대표
신주쿠 역 동쪽 남쪽 출구에서 연설을 마치고 박수를 충족 에다 노 유키오 · 입헌 민주당 대표

- "자유주의"의 반대말이 "빠타나루"이라면, '보수'의 반대말은 무엇일까요? 

한마디로 '혁신'지요.

- 아베 씨는 "혁신"... 

그렇죠 "혁명"라고 말하고 있으니까요. 여러가지 일에 반대하여 변화한다는 점에서는 오히려 공산당이 보수. TPP 반대 농가를 지켜라이나 중소기업을 제대로 보호하라 든가, 보수적 인 주장 자체입니다.

단순화 및 단언을지도 텔레비전

- 먼저 자유주의의 기본은 '자유'와 '관용'이라는 이야기가있었습니다 만, 「자유주의는 정의를 내세워 편협하다 '는 비판도 있습니다. 자유주의를 표방하는 분들에게, 나 자신도 그것을 느낄 수 있습니다.

 그것은 바로 '적극적 자유'의 역설입니다. 자유주의가 지나치다 "이것이 바로 자유이다"라고 빠타나루 태도가되어 버렸 타인의 자유를 억압 해 나가는 패턴 네요.

 예를 들어 원전 반대 운동. 나도 원전 반대인데 반대 운동 방식에 이의를 제기하면 대단한 비난이옵니다. 여러 번 덮쳤다. 데모에서도 비폭력라며 말은 굉장히 폭력적이기도하네요.

- 반면, '보수'라고 자칭하는 사람이 굉장히 공격적인 것도 신경이 쓰입니다. '보수'는 더 포용력이 있었을 텐데 .......

 95 년 정도를 기점으로 불안이 만연하고 사람들이 "긍정"을 추구하는 경향이 강해지고 있다고 생각합니다.

 TV 발표자 전나무 몬타 라든지 종려 온 家人 든가, 단언하면서 진행하고가는 사람이 나오고, 굉장히 감정을 부추 기는 같은 프로그램이되어 갔다. 그 이전의 와이드 쇼는 "룩 룩 안녕하세요」라고, 岸部 시로가 흔들 흔들하게 사회를하고 있었던 것입니다 만.

 90 년대 후반에 NHK에서 연구자의 아르바이트를하고 있던 수 있습니다. "그 때 역사가 움직였다"라는 프로그램에 참여했습니다. 하지만 역사를 공부하고 온 사람으로부터하면, "그 때 역사가 움직였다"이자 없어요. 몇월 몇일에 역사가 움직였다, 같은하는 것은 다르다. TV는 "알기 쉬움 '과'단순함 '의 구별이 붙지 않는 군요. 본래 「알기 쉬움」은 정중하게 설명하는 것이라고 생각 합니다만, "그러면 (시청자에게) 받아 들일 수 없다"고 말할 것입니다.

 타하라 소이치로 씨의 수법도 "예수 노"이군요. 타하라 씨는 카메라가 돌고 있지 않은 곳에서 좋은 사람입니다 만 .... "아침까지 생 텔레비전」라고 단언하는데 사용하는 프로그램 이죠. 저것을 "논의"라고겠다. 저것은 "말다툼" 왓과 서로 말하고, 소리의 쪽이 승리하는 게임입니다. "토론"이라는 것은 "과연 그 사람이 말하는 것은 이치가있다」라고 생각하면, 자신의 의견을 바꾸 겠다는 태도가 아니라고 할 수 없다. '보수'생각 '논쟁'은 그런 것입니다. '아소'는 '토론'이라는 것의 신용을 잃게 한 프로그램이라고 생각합니다.

- "반박 할"것을 좋아하는 사람도 늘고있는 것도 그러한 프로그램의 영향이있는 것은 아닐까,라고.

 그렇게 생각합니다. 그러한 것에 우리들은 20 년간 불안 속에서 마음의 의지를 요구해 온 것은 아닐까. 즈박라고 좋겠다. "아침 즈바"라는 프로그램 이름은 과연 생각했습니다. 그런에 익숙하게 한 결과, 하시모토 현상이있어, 코이케 씨가 나오고, 아베 내각이 계속 이어지고있다 않을까. 그것이 보수라는 것은, 나는 자극을 기억합니다.

목표로 할 것은 ...

- 정직한 '보수' '자유주의'를 되찾고 싶다?

 그렇네요. '보수'라고 이야기한다면, 제대로 '보수'를 정의하고 말합시다,라고. 그리고 아베 씨의 빠타나리즈무를 의심하면서 왼쪽 빠타나리즈무도 의심이 서민의 예지에 기초한 자유주의라는 것이라고 생각합니다.

 미국의 지금의 정치에 끌려 않고 또는 정당이나 당수의 주장과 언론의 설명을 그대로 받아들이지 않고 오랜 역사에 견디고 측정을 손에하면서 지금 일본의 정치와 사회를 냉정하게 응시한다. 그리고 극단적 인 담론과 태도에 이끌려 않고 자신의 태도를 결정한다. 그 소중함을 나카시마 씨의 이야기에서 절실히 생각하게되었다.

언론인 카나가와 특임 교수

가나가와 신문 기자를 거쳐 프리랜서. 사법, 정치, 재해, 교육, 컬트, 음악 등 관심 분야는 다양합니다. 2020 년 4 월부터 카나가와 대학 국제 일본 학부 특임 교수 컬트 문제와 미디어 이론을 가르치고 있습니다.

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